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2012/05/14
巽方砲台(台南市東区)
さて、謎だらけの修禅院を我々が訪問した理由は、ここにトンデモな古蹟が存在するからだ。
見よ、この要塞を!
とにかく、いろいろツッコミ所が多いので、写真たっぷりで紹介する。なんと総数14枚だ。
修禅院の入口から見えるのは、こんな感じ。
石壁にくっきりと屋根の痕がついている。もちろん石造物の来歴から考えて、こんな屋根だったはずはない。手前にこんな屋根の建物があって、取り壊された痕跡だろう。
正面。上部の目立たない額には「巽方靖鎮」とある。一方、その下の目立つ方は「修禅院」だ。砲台に無理矢理寺院の額を嵌めたわけだ。
ここは一般に巽方砲台と呼ばれる。文字通り、台南府城の巽の方角にある砲台だ。完全な内陸の砲台は、非常に珍しいという。
元々、ここは府城の外部である。しかし大東門周辺が商業地域として発展すると、城門の外側にも人家が建ち並ぶようになる。これを大東門外街と呼んだ。
やがて19世紀になり、台南では反乱が相次ぎ、特に1813年に張丙が起こした乱は、外街の住人に恐怖を与えた。そこで住人たちの請願もあり、1816年に外街を囲む城壁が造られた。
ただし新造の城壁は、三和土で固めた本格的なものではなかった。そこで不安を解消するため、二箇所に砲台を築いたのだ。
一箇所は現在の長栄中学付近だが、これは現存しない。そしてもう一つの砲台が、こうしてなぜか寺院の一部となっている。
砲台は、老古石(サンゴ)と切り出した石を組み合わせ、カキ殻セメントで固めてある。安平に来たような雰囲気だ。
それにしても、「古蹟」ってはめ込む意味は何だろう、と思う。まぁ反対側の「銃楼」も、寺院に全く似つかわしくない言葉だが。
これは反対側から。要するに、敵が攻めてくる方向である。
ただの壁に見えるかも知れないが、もちろん近づけば命はないぞ。
外側にはセメントで化粧がされているようだ。これは本来の姿なのかは分からない。
『台南歴史深度旅遊』によれば、荒れ放題だった砲台を修禅院が買い取って、かなりの改造を施したとある。
とにかく、寺院の堂宇として整備したのだから、中には何か祀られているのだろう、と入ってみた。すると……。
どぉぉぉーーん。
な、なんだこれは。
内部はがらんどうだ。西城秀樹はギャランドゥだ。
円みを帯びた屋根。
そりゃまぁ砲台に装飾は不要だけど、それにしてもねぇ。あまりの雰囲気に、hashiはそそくさと逃げ出してしまったゾ。
さっきの「古蹟」窓を内側から見ると、こんな感じである。
独房ごっこができそうだ。そんな「ごっこ」いらねぇや。
問題は反対側だ。
そう、さっき紹介した敵に面した方向にも、こんな空間がある。窓はないが、よーく見ると……。
なんと銃口があいている。ものすごく生々しい古蹟である。
地元の小学生が見学に行きそうな場所だけど、見せたらトラウマになりそう。
さて、最初の写真で確認できるように、砲台の右側には階段がついている。これが当時のものかは分からないが、ともかく昇れるようなので昇ってみた。
なんとそこには、砲台には全く似つかわしくない休憩場所が設けられていた。どうやら修禅院はここを展望台に仕立てたらしい。
ただし、目の前には修禅院の高層ビルが建っているし、もともと大した高さでもないから、展望するほどの景色はない。だいたい、あんな砲台の上で楽しくかたらいながら休憩するヤツもいないだろう。
hashiとtomopeeも昇ってはみたが、椅子に座ることもなく早々に退散した。
ちなみに『台南歴史深度旅遊』の写真では、この位置に屋根が架かっている。かつては屋根付きの東屋だったようだ。現在の姿は、恐らくはこれでもだいぶマシなのだろう。
まぁ正直、ここは観光地としては薦められない。写真を見て、それでも興味があるというならば、止めはしないけど。
現在の台湾では、金門島とかの軍事要塞を観光客に見せているわけで、そういうものと比べたら大したことはない。ただ、derorenは要塞見学などしたいとも思わないので、ここの評価も微妙である。
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