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2012/04/30
興安宮(北門区井仔脚)
塩田の駐車場の真ん前に、こんな立派な三合院が建っている。
その昔、ウチのブログに載せてる西華堂の写真について、「三合院の説明に使わせて欲しい」というメールをもらったことがある。しかし西華堂は、三合院には違いないが民家ではない。三合院の民家という意味では、これぞ典型という感じだ。
その三合院建築の隣が廟になっている。より塩田に近い位置だ。
単に近いだけではなく、塩田の管理にも、ここは関わっていると思われる。少なくとも、塩田の塩を持ち帰るための袋は、ここで配られていた(小さく看板が見える)。
廟の内部は、軽く拝拝しただけなので詳細は不明。紀府千歳を祀るらしい。いや、五体居られるから、紀府千歳を含む五府なのではないかと推測される。
とりあえず、塩田の観光客が全く拝拝しないことだけは確かであった。
こうして北門区に別れを告げ、台南市内へと帰還する。この時点で、もう17時を過ぎているので、あとは夕食だ。
井仔脚瓦盤塩田(台南市北門区)
突然目の前に開けた光景。
銀閣寺の向月台とか、上賀茂神社の立砂みたいなものが、水面に顔を覗かせている。
近づいて見れば、塩の山。
そう、ここは塩田なのである。
北門区の井仔脚という地区にあるこの塩田は、台湾では最古に属する歴史がある。瓦盤塩田という方式を採用している。
この方式は、鄭氏政権の頃に遡るという伝承がある。当時、既に台湾では塩が生産されていたが、とても非効率なものだった。そこで陳永華が新たな方式を導入させたのが、これなのだとか。台湾の諸葛孔明らしいエピソードである。
ちなみに、井仔脚(永華村)での製塩は1818年に始まったらしい。代天府移転の翌年なのは、何か関係があるのだろうか。
現在は商業ベースの生産は終了しているが、製塩は可能。台湾には多くの塩田跡があるけど、今でも造れるというのは、かなり貴重である。
というのも、瓦盤塩田は恐ろしくシンプルな方式だから。
田んぼのような区画を造り、そこに瓦などを平らに敷き詰めれば、設備は完成。あとは海水を流し込み、天日で乾燥させるだけだ。
写真のように中央に掻き集めれば、一日でできてしまう。
作業の体験もできるらしいが、写真に見えるのは、本職の人。
造られた塩は、お土産で持ち帰ることもできる。我々ももちろん持ち帰った。積み上がってる塩を、自分で袋に入れる形なので、きれいな塩なのかという疑念は若干あったけど、主に塩ゆでに利用している。
岩塩を砕いたような大粒で、味はかなりいい。何よりも、製造工程がすべて把握できて、その想像の通りの姿をしているのがいい。
一部の瓦盤は、誰でも入れる体験スペースになっている。
体験といっても、天秤を担いだり、塩に触ったりする程度。まぁ無料施設だし、何と言ってもリアルな塩田に立てるのだから、十分に楽しい。
塩のオブジェもあった。
台南で塩田といえば、七股の塩山が有名だけど、他にもいくつか観光地として公開されている。
ここは商売っ気が乏しく、とても地味。交通の便も悪い。どうしてもバスで行くとなれば、最寄りのバス停から2kmほど歩くことになろうが、炎天下の台南でそれはやめた方が無難。新営駅からタクシーに乗るのが良さそうだ(タクシーなら、恐らく新営駅から20分もかからないはず)。
まぁそんな場所だけど、リアルな塩田を感じられる場所はそうそうないので、興味があったら思い切って行ってみるべし。
なお、この時間の塩田には、三脚つきのカメラが沢山並んでいた。その理由は、一番最初の写真でも分かるように、夕陽が間もなく塩田に映る時間だったから。
せっかくなので、シャッターチャンスを待つ人々の写真も何枚か撮ったけど、モザイク入れるのが面倒臭いから掲載は見合わせておく。
ともかく、ここは台南の友人に案内してもらわなければ、決して行く機会のなかった場所だ。とても素晴らしい体験だった。改めて御礼申し上げる。
2012/04/28
北門区の海辺を行く
南鯤鯓代天府に別れを告げ、再び車に乗った一行。案内してくれる友人にお任せなので、derorenとhashiは次の行き先を知らない。というか、もう夕方だし、そんなに寄れる場所もないだろう。
北門区(旧北門郷)は、かつては塩田と養殖池で栄えた町。いかにも海辺という雰囲気がある。derorenは海辺の町で生まれ育ったので、こういう景色は嫌いではない。山の方で育ったhashiも、普通に楽しんでいたけどね。
これはderorenの故郷にはない景色。
田んぼではないし、単純に海が干上ったわけでもない。表面が白っぽいのは、塩が浮いているからだ。
台湾でも塩田は商業ベースに乗りにくくなり、今ではほとんど消えてしまった。ともあれ、これはその名残りのような光景である。
ちなみに、hashiの出身県にはかつて塩田があった。ただしhashiが物心つく頃には生産を終えていたようだ。現在はでっかい橋ができ、その下に工場が並んでいる。
そうして車を停めた場所は、これまた海辺のリゾート地って感じ。いや、リゾートという言葉がとても似合わない感じだ。
干物がぶら下がっているのは、日本の海辺と同じ。ただし魚が違う。これはサバヒーの干物である。
さすがに買って帰るわけにもいかないので、眺めただけ。身も厚いし、きっとうまいだろうなぁ。
そんなわけで、ここはどこでしょう?
ヒントは「海水浴場ではない」。まぁヒントどころか、正解そのものを書いているけど。ともかく、その正解は次の記事で。
2012/04/27
南鯤鯓代天府(六) 槺榔山荘
南鯤鯓代天府は、正面から見て左側が小高い丘になっていて、そこに(五)の凌霄寶殿(になる予定の建物)が並ぶ。
反対側には、慶成閣、その奥に萬善堂。で、一番端のエリアには、何fやら巨大な建物群があった。
萬善堂から、駐車場を挟んで広がるのは、槺榔山荘という宿泊施設だ。
先ほどの苑地とは異なり、きちんと手入れされた庭園が続く。
建物も、決して古いものではないと分かるのだが、かといって安い造りでもない。表面のタイルだけ伝統風にしたようなものとは明らかに違う(1992年完成)。
奥まったエリア。会議室への階段が見えるが、パンフによれば滅茶苦茶でかい。学校の体育館並みの大きさはありそうだ。
奥の高層ビルも含めて、とてつもない巨大施設である。
しかも、屋根や窓などの意匠をみても、伝統建築に拠っている。パンフによれば、四合院と楼閣の建築を組み合わせたらしい。普通のホテルの数倍は費用がかかってそうだ。
まぁ郊外型の廟宇の場合、自前で宿泊施設をもつ例は少なくない。士城聖母廟なんかもあるし、有名どころでは鹿港天后宮を挙げることができる。
ここはダブルルームやツインもあるので、個人客も使いやすい模様。ただし、泊まった人のブログを見ると、部屋はまぁ例えて言うならば、台北市内で1000元しないようなレベルのようだ。
その意味では、観光客向けとは言いがたい。どうしてもここに長居する用があれば別だが。
おまけ。入口にあった鯉のオブジェ……ではなく自動販売機。鯉のエサを売っている。
ちなみに、同様のヤツは赤嵌楼でも見かけた。たぶん全台湾にあるのでは。
力士が飲むとダイエットしちゃうからダメらしいぜ。というか、この飲み物の存在は知っていたぜ。わざわざ飲みもしなかったぜ。
そんなわけで、6回にわたった代天府特集はこれでおしまい。後は、忘れた頃に進香団の紹介をする予定。
初の北門区は、これだけではない。次に紹介する場所の方が、たぶん読者の関心をひくはず。GWには遠出の予定がないderorenなので、Blue Mondayでも聴きながら書くぜ。個人的にはNew Dawn Fadesを聴いて沈み込むのがいいぜ。
南鯤鯓代天府(五) ただいま制作中
新興宗教が、教団の勢いを示すために箱モノを建てまくる。それは世の東西を問わず普遍的な現象である。というか、それは国家であれ企業であれ、王を抱く組織ならば普遍的というべきだろう。
まぁそこまで普遍化すると話が進まないので、台湾の宗教施設に限ったとしても、以前に訪問した士城聖母廟や鹿耳門天后宮、北港朝天宮などを挙げることができる。この三つは媽祖廟で、南鯤鯓代天府は王爺廟という違いはあるけど、いずれも海に関わりの深い神。そして、その海は漠然としたものではなく、「両岸」関係のただ中にある海だ。
とはいえ、媽祖廟と王爺廟はやっぱり違うのかなぁ…と思ったのも事実。この上の写真、一見すると立派な建物だがまだ未完成。絶賛寄付金受付中である。
その建設中エリアにある龍泉井。説明によれば、1817年に移転した際、ここには飲み水がなかった。そこで五府千歳が泉を噴出させ、人々は井戸を造って利用したとある。
まぁいかにもありそうな話。
奥まった一角には、こんな苑地もある。
ちなみに、中央の楼閣は建設中エリアなので、遠くから眺めるだけ。
ナンヨウスギなどが目立つ庭園は、実際に見ると手入れが行き届いていない。ちなみに、白い枯枝が目立つのは、カリステモンの一種(日本でいうブラシノキの仲間)。
石組もあって、金はかかってそう。現状は、置いてるだけだが。
こんな展望台もあった。隣の建物も高いので、登っても池の方向しか見えないと思われる。いろいろな面で詰めが甘い。
これはまた別のエリアに立つ慶成閣。「戊申三百年醮」で建てたと案内板にあった。
この廟の造られた1668年が戊申年なので、それから三百年という記念らしい。北方建築なのは、国民党政権下なので当然なのだろう。
最後は廟の横手の山に聳える宮殿群。凌霄寶殿と呼ぶらしいが、まだ未完成。寄付金をつのるパンフレットがあった。完成時には玉皇上帝を祀る予定だそうな。
そのパンフレットで面白いのは、藻井や神龕は、寄付金ではなく現物納入を求めている点。参考価格が一緒に載っているので、これがいくらで造れるのか分かる。たとえば正殿の藻井は3800万元、正殿の神龕も3800万元。日本円に換算して1億500万円ほどだ。
まぁderorenには縁のない話ですな。
南鯤鯓代天府の記事は残り一つ。それとは別に、見学した進香団の記事も書くけど、そちらは後回しになる予定。
代天府に関心をもてない読者は、あと一回の辛抱だネ。
南鯤鯓代天府(四) 萬善堂
南鯤鯓代天府はだだっ広い。現在建設中の箇所もそこかしこにあったりする。
その(四)以降は、正直言って蛇足っぽい内容だけど、せっかくなので紹介しよう。
写真は萬善堂。建設途中の社殿は、どんなに立派そうでも大した価値はないが、ここは拝拝の人もいる、生きた廟である。
この廟のそばには、小さな池がある。で、人間と牛が、何やら曰くありげに鎮座している。
もちろん、どこかの芸術家が境内を借りているわけではなく、萬善堂の由来に関わるものだ。
萬善堂は『台湾廟宇図鑑』では触れられていない。従ってその由来については、ほぼネットに依存するしかないのだが、これがまた私の読解力では難しい。大雑把にしか説明できないのでご了承願いたい。
昔、この地に牛飼いの子ども(囝仔公)がいた。で、その牛飼いは雨に降られると、いつも現在の廟の辺りで雨宿りをしていたという。ただしその雨宿りの場所には特別な霊気が漂っていたため、牛飼いはいつしかそうした霊気を溜めていく。
そして牛飼いは、亡くなる(神として天に召される)前にこう言った。自分の身体を、ゴマと豆と一緒に葬れ、と。そうして昇天した神が萬善爺であるという。
代天府の五府千歳を祀る際に、萬善爺が現れて「ここはワシの土地ぢゃ」みたいに怒ったエピソードもあるらしい。外来神に対する地主神という立場で祀られているのならば、よく分かる話だ。
時計ではない。鐘が鳴るのさ。
萬善堂内部の様子。
少年神なのに「爺」はおかしいと思うのは、日本語的な感覚。「年寄りはえらい人」的に考えれば良い。若くともえらければ爺だ。
なお、日本統治時代の1917年に、近くの急水溪が大規模な氾濫を起こした。その際に萬善堂の前身の廟は流されてしまい、代天府全体が危機に瀕したという。
そこで五府千歳が現れ、二万の信徒を動かして堤防を築かせた。その堤防は五王堤と名づけられ、おかげで水害の恐れがなくなった。その後に、あらためて再建したのが萬善堂であるとも説明されている。
2012/04/22
南鯤鯓代天府(三) 後殿の青山寺
台湾では観音菩薩を航海の守護神とすることがある。媽祖廟の後殿に必ずといっていいほど観音が祀られているのはそのためだ。
従って、立地的にもやはり航海にも関わるだろう南鯤鯓代天府に、観音の姿があったとしても不思議ではない。
ただし、そこには青山寺という額が掲げられている。
ここも立派な八角藻井が造られている。中央の天板が八卦の形なのは、泉州渓底派の特色だと『台湾廟宇図鑑』に書かれてある。
そして本尊の観世音菩薩。写真は斜めなので奥が見えないが、正面から見ても観音像は見えなかった(手前の像で隠れている)。
境内にあった案内板によれば、ここは清の同治11年(1872)に創建されたという。恐らくは創建時から南鯤鯓代天府の後殿であったと思われるが、ともかくここには「青山寺」という独立した名前が付けられている。
なお、同じ案内板には、2007年に浙江省普陀山の南海観音禅林と結盟したとあった。普陀山といえば、台湾の観音殿がしばしば岩窟を摸していることの由来の地である。こうして両岸の交流が続いているわけだ。
これは青山寺前の壁、つまり正殿後方の後拝殿の壁にあたる。
このような壁は金銭壁で、富貴万年の象徴であるそうな。
龍柱は正殿にも負けない立派なもの。
こちらの柱には、大正12年と刻まれている。(二)で紹介した、正殿と同時期だ。
この時の造営は、三川殿から後殿まで一体のものだったという証明になっている。
さて、「青山寺」という名の割には仏教寺院らしさ(derorenが知るような、というレベルだ)が感じられないここには、玉皇上帝と地蔵王菩薩も祀られる。
まぁ普陀巌のある廟は、むしろ仏教寺院じゃない場合が多いわけだし、ここもそうだと思えば不思議ではない。
手前の像がたぶん地蔵で、奥に描かれているのが玉皇上帝か。もしくは、陰に玉皇上帝の神位か何かが居られるかもしれない。
ちなみに地蔵は仏教側ではあるが、観音とは無関係に祀られている(青山寺の案内板には触れられていない)。冥界と関わりの深い菩薩として、城隍廟や東嶽殿にもつきものの地蔵だから、同じく陰廟のここにも祀られているのだろう。
玉皇上帝は……、まぁいるにこしたことはない神だからねぇ(出入りする乩童などと関係があったりする?)。
というわけで、中心部はこれで紹介終了。
しかし南鯤鯓代天府は巨大な空間だ。他にもいろいろな神殿や施設があったので、引き続き載せていく。
日本人旅行者に需要があるかは分からないけど、興味のある人が調べた時に、一つぐらい日本語のガイドがあったらいいだろうな、という感じで書いているので、どうぞよろしく。
2012/04/21
南鯤鯓代天府(二) 天に代わって疫神を斬る
その(一)は例によって枕で終わってしまったので、簡単に廟の紹介をしてから(二)の内容に進む。
南鯤鯓代天府の創建は、一応は清の康煕元年(1662)とされる。この1662年は鄭成功が台湾を奪取した年であり、少なくとも清の統治下にはなかったはずだから、永暦16年とすべきかも知れない。
まぁいずれにせよ、当初の鎮座地は19世紀初頭の河川の氾濫で消失した。嘉慶22年(1817)に現在地に移転再建し、以降たびたび手が加えられて現在に至っている。
祭神は李、池、呉、朱、范の五府千歳。千歳とは、(建前としては)実在の人間が、生前の功績により玉皇大帝から神とされたもの。ここの五府は、李大亮、池夢彪、呉孝寛、朱叔裕、范承業の五人とされる。
ちなみにこの五名は、唐の王朝樹立に功績のあった者として、けっこう有名な方々である。李大亮なんて、『貞観政要』にエピソードが載ってる名将だ。
彼ら五人は義兄弟の契りを結び、隋の煬帝の悪政から人民を解放した。人々に讃えられた彼らは、死後、玉皇大帝に呼び出されて、新たな任務を与えられた。それが代天府の名の由来である「代天巡狩」、つまり天に代わってのパトロールだ。
天に代わると自称する人々なんて、現実にはたいてい自己中心的な犯罪者予備軍でしかない。かの破れ奉行にしても、身近にいたら生きた心地がしないだろう。
もちろん台湾においても、天が意味するところは日々変化しているはず。ただ、こうした神々による専制統治の体系が維持されていくならば、自然と現実の政治のベクトルに及んで行くのかなぁ。
まぁ、思うところは多々あるけど、このブログで触れるのはよそう。
※注:破れ奉行とはこういう人です。
話が逸れすぎた。
そんな五府千歳だが、元々は大陸側の神だった。それが台湾に祀られるようになったきっかけは、17世紀に福建で疫病が流行したことにあるという。
五府千歳は疫病を祓う神として信仰された。ただしその信仰は、五柱の神々を船に乗せて、疫病とともに海の彼方へ去ってもらうものだった。日本における祇園信仰と同じである。
そうして流された船は台湾に流れ着き、大騒動の内に祀られることとなったはずだ。船が着岸するというのは、要するにそこで新たに疫病をまき散らすことに他ならない。
北門郷の人々が、これらの神を心の底から歓迎したのかは分からない。しかし威力のある神を新たに得ることができたと、ポジティブに捉えることもできる。
実際、日本統治時代に苗栗県のとある浜に船が流れ着き、そこに廟を建てた記録を読んだことがある。記録者は、村人が喜んでいたという。しかし、その記録者は民間信仰の専門家ではないので、額面通りには受け取れない。
まぁ日本統治時代には、民間信仰をポジティブに研究する学問自体が稀だったわけで……と、さらに逸れてしまったぜ。
やたら濃い説明になってしまった。ここからは反省して、淡白に書いていこう。
写真は、三川殿を正面から。屋根の上にいろいろ乗っているのが台湾らしい。
本当は足元のほうも撮りたかったが、何せ人だらけで無理。
三川殿の内部から、拝殿、正殿と続く。正面奥に五府千歳が祀られる。
写真で分かるように、ちょうど進香団がやって来ており、乩童の姿も見える。さすがにこの場に割り込んで撮影はできないので、正殿の写真はこれだけ。
ちなみに『台湾廟宇図鑑』によれば、このように建物が縦に密に並ぶのは、王爺廟の特徴とされるらしい。途中の庭がないため、内部が暗くなる。それがまぁ、陰廟としての演出になるという説明のようだ。
拝殿の八角形石柱。草花の浮き彫りが見える。『台湾廟宇図鑑』によれば、こうした石柱は台湾全土でも珍しいという。
八角柱の後ろの柱をよく見ると、大正癸亥年とある。大正12年(1923)にあたる。
『台湾廟宇図鑑』によれば、この1923年に、代天府の大規模な造営が始まったという。福建省の泉州から人を招いて設計を行い、現在のような廟宇とした。造営は1937年にまで及び、王爺廟の典型といわれる形になった。
ちなみに、台北の龍山寺に関わった工匠たちを呼んだらしい。三川殿の造りとか、あちこち似ているのも当然ということになる。
1923年は、台湾の総督が文民総督になっている頃だ。軍人総督期には、民間信仰を破壊する発想しかなかったが、この頃には政策転換がなされている。まぁその辺も、ここでは流しておく。
拝殿の天井。八角形の蜘蛛の巣を張ったような形は、藻井と呼ぶ。廟ではよくあるものだが、よくできたものだ。
その三へ続く。いつも通り、順調に長引いてるなぁ。
南鯤鯓代天府の創建は、一応は清の康煕元年(1662)とされる。この1662年は鄭成功が台湾を奪取した年であり、少なくとも清の統治下にはなかったはずだから、永暦16年とすべきかも知れない。
まぁいずれにせよ、当初の鎮座地は19世紀初頭の河川の氾濫で消失した。嘉慶22年(1817)に現在地に移転再建し、以降たびたび手が加えられて現在に至っている。
祭神は李、池、呉、朱、范の五府千歳。千歳とは、(建前としては)実在の人間が、生前の功績により玉皇大帝から神とされたもの。ここの五府は、李大亮、池夢彪、呉孝寛、朱叔裕、范承業の五人とされる。
ちなみにこの五名は、唐の王朝樹立に功績のあった者として、けっこう有名な方々である。李大亮なんて、『貞観政要』にエピソードが載ってる名将だ。
彼ら五人は義兄弟の契りを結び、隋の煬帝の悪政から人民を解放した。人々に讃えられた彼らは、死後、玉皇大帝に呼び出されて、新たな任務を与えられた。それが代天府の名の由来である「代天巡狩」、つまり天に代わってのパトロールだ。
天に代わると自称する人々なんて、現実にはたいてい自己中心的な犯罪者予備軍でしかない。かの破れ奉行にしても、身近にいたら生きた心地がしないだろう。
もちろん台湾においても、天が意味するところは日々変化しているはず。ただ、こうした神々による専制統治の体系が維持されていくならば、自然と現実の政治のベクトルに及んで行くのかなぁ。
まぁ、思うところは多々あるけど、このブログで触れるのはよそう。
※注:破れ奉行とはこういう人です。
話が逸れすぎた。
そんな五府千歳だが、元々は大陸側の神だった。それが台湾に祀られるようになったきっかけは、17世紀に福建で疫病が流行したことにあるという。
五府千歳は疫病を祓う神として信仰された。ただしその信仰は、五柱の神々を船に乗せて、疫病とともに海の彼方へ去ってもらうものだった。日本における祇園信仰と同じである。
そうして流された船は台湾に流れ着き、大騒動の内に祀られることとなったはずだ。船が着岸するというのは、要するにそこで新たに疫病をまき散らすことに他ならない。
北門郷の人々が、これらの神を心の底から歓迎したのかは分からない。しかし威力のある神を新たに得ることができたと、ポジティブに捉えることもできる。
実際、日本統治時代に苗栗県のとある浜に船が流れ着き、そこに廟を建てた記録を読んだことがある。記録者は、村人が喜んでいたという。しかし、その記録者は民間信仰の専門家ではないので、額面通りには受け取れない。
まぁ日本統治時代には、民間信仰をポジティブに研究する学問自体が稀だったわけで……と、さらに逸れてしまったぜ。
やたら濃い説明になってしまった。ここからは反省して、淡白に書いていこう。
写真は、三川殿を正面から。屋根の上にいろいろ乗っているのが台湾らしい。
本当は足元のほうも撮りたかったが、何せ人だらけで無理。
三川殿の内部から、拝殿、正殿と続く。正面奥に五府千歳が祀られる。
写真で分かるように、ちょうど進香団がやって来ており、乩童の姿も見える。さすがにこの場に割り込んで撮影はできないので、正殿の写真はこれだけ。
ちなみに『台湾廟宇図鑑』によれば、このように建物が縦に密に並ぶのは、王爺廟の特徴とされるらしい。途中の庭がないため、内部が暗くなる。それがまぁ、陰廟としての演出になるという説明のようだ。
拝殿の八角形石柱。草花の浮き彫りが見える。『台湾廟宇図鑑』によれば、こうした石柱は台湾全土でも珍しいという。
八角柱の後ろの柱をよく見ると、大正癸亥年とある。大正12年(1923)にあたる。
『台湾廟宇図鑑』によれば、この1923年に、代天府の大規模な造営が始まったという。福建省の泉州から人を招いて設計を行い、現在のような廟宇とした。造営は1937年にまで及び、王爺廟の典型といわれる形になった。
ちなみに、台北の龍山寺に関わった工匠たちを呼んだらしい。三川殿の造りとか、あちこち似ているのも当然ということになる。
1923年は、台湾の総督が文民総督になっている頃だ。軍人総督期には、民間信仰を破壊する発想しかなかったが、この頃には政策転換がなされている。まぁその辺も、ここでは流しておく。
拝殿の天井。八角形の蜘蛛の巣を張ったような形は、藻井と呼ぶ。廟ではよくあるものだが、よくできたものだ。
その三へ続く。いつも通り、順調に長引いてるなぁ。
2012/04/20
南鯤鯓代天府(一) 台湾最大の王爺廟
台南市北区のホテルから、北上すること1時間以上。全く予定になかった廟を訪れることができたのは、言うまでもなく台南の友人の皆さんのおかげである。感謝。
さて、行き先は台南市北門区(旧台南県北門郷)。嘉義県との境にあたる海沿いの小さな町だ。
台南付近の海岸沿いには、かつては砂洲で隔てられた浅い内海が連なっていた。鄭成功が台南入りした頃は、まだ船が入れるほどの深さがあったものの、その後も土砂の堆積は進み、どんどん浅くなっていく。そんな浅い内海は、塩田になったり養魚池になったりした。
ドライブの間、derorenはそんな養魚池が広がる景色を期待していた。しかし、やや内陸側のルートだったことを差し引いても、養魚池は少ない。手持ちの地図と比べても、明らかに減っている。
商業生産の塩田がなくなったのは周知の通りだが、魚介類の養殖も厳しいのかなぁ。エビやサバヒーや牡蠣が食えなくなったら寂しい……というのは飛躍し過ぎか。
いつものように話題がそれた。
上の写真は北門区に入った後に、窓ガラス越しに撮ったもの。小高い丘のような辺りに、一目で廟と分かる建物が林立している。それが目的地である。
巨大駐車場に車がびっしりのここは、南鯤鯓代天府。ちなみに南鯤鯓は地名だ。
そもそも鯤鯓は、内海を隔てる砂洲が島状になっているのを、海に魚が並んでいる景色に例えたもの。有名なのが台南市のそれで、一鯤鯓から七鯤鯓まで南北に連なっていた。その一鯤鯓が安平である。
もちろん多いのは車だけではない。ちょうど休日だったせいもあるだろうが、拝拝の人々や進香団であふれかえっている。
電光掲示が彰化県なのが紛らわしいが、これはたぶん、ここの進香団が来ているという表示だと思う。
代天府の文字が誇らしく掲げられる。
まぁ、このブログでは数々の代天府を既に紹介済みだ。要するに、天の神の代理として人間世界をパトロールする存在(王爺)であり、王爺廟ならどこにでも書かれてある。
よく似た「玉旨」(玉皇上帝の旨を承けた、という意味)も含めて、下世話にいえば、廟の権威づけである。ただし、台湾的な世界では、そのように命を承ける過程が具体的に語られるわけだが。
そんなわけで三川殿。この前に、二つ上の写真の建物がある。二つ上の方は、三川殿前のスペースに張り出し屋根を設けて、その外側を廟らしくデザインしたもの。手元にある『台湾廟宇図鑑』の写真にはないので、最近作ったものだろう。
台湾の廟宇では、いつも廟前のスペースで何か行われているから、そこに大きな屋根を架ける例も少なくない。ただし西羅殿のように、その屋根のせいで建物が見えなくなるのはちょっと残念だったりする。
日本の寺社なら、たぶん景観を守ることが優先されるので、こういうことは絶対にしないだろう。その辺、実利を重んじる台湾との違いが見えて面白い。
観光客にとっては、張り出し屋根なんてない方がいいのだから、この写真の沢山の人々も、大半は観光客ではなく拝拝目的と思われる。というか、観光客の動き方は拝拝の人々と違うから、すぐ分かるのよね。
入口で字数を費やしてしまった。いつも通り、ダラダラと紹介を続けて行くのでよろしく。
なお、正確には三川殿が写真中央の入口で、手前は龍門、奥が虎門。まぁこの辺の配置は、台北の龍山寺なんかと同じなので、ツアーで台北に行った人でも分かるかも知れない。