その(一)は例によって枕で終わってしまったので、簡単に廟の紹介をしてから(二)の内容に進む。
南鯤鯓代天府の創建は、一応は清の康煕元年(1662)とされる。この1662年は鄭成功が台湾を奪取した年であり、少なくとも清の統治下にはなかったはずだから、永暦16年とすべきかも知れない。
まぁいずれにせよ、当初の鎮座地は19世紀初頭の河川の氾濫で消失した。嘉慶22年(1817)に現在地に移転再建し、以降たびたび手が加えられて現在に至っている。
祭神は李、池、呉、朱、范の五府千歳。千歳とは、(建前としては)実在の人間が、生前の功績により玉皇大帝から神とされたもの。ここの五府は、李大亮、池夢彪、呉孝寛、朱叔裕、范承業の五人とされる。
ちなみにこの五名は、唐の王朝樹立に功績のあった者として、けっこう有名な方々である。李大亮なんて、『貞観政要』にエピソードが載ってる名将だ。
彼ら五人は義兄弟の契りを結び、隋の煬帝の悪政から人民を解放した。人々に讃えられた彼らは、死後、玉皇大帝に呼び出されて、新たな任務を与えられた。それが代天府の名の由来である「代天巡狩」、つまり天に代わってのパトロールだ。
天に代わると自称する人々なんて、現実にはたいてい自己中心的な犯罪者予備軍でしかない。かの破れ奉行にしても、身近にいたら生きた心地がしないだろう。
もちろん台湾においても、天が意味するところは日々変化しているはず。ただ、こうした神々による専制統治の体系が維持されていくならば、自然と現実の政治のベクトルに及んで行くのかなぁ。
まぁ、思うところは多々あるけど、このブログで触れるのはよそう。
※注:破れ奉行とはこういう人です。
話が逸れすぎた。
そんな五府千歳だが、元々は大陸側の神だった。それが台湾に祀られるようになったきっかけは、17世紀に福建で疫病が流行したことにあるという。
五府千歳は疫病を祓う神として信仰された。ただしその信仰は、五柱の神々を船に乗せて、疫病とともに海の彼方へ去ってもらうものだった。日本における祇園信仰と同じである。
そうして流された船は台湾に流れ着き、大騒動の内に祀られることとなったはずだ。船が着岸するというのは、要するにそこで新たに疫病をまき散らすことに他ならない。
北門郷の人々が、これらの神を心の底から歓迎したのかは分からない。しかし威力のある神を新たに得ることができたと、ポジティブに捉えることもできる。
実際、日本統治時代に苗栗県のとある浜に船が流れ着き、そこに廟を建てた記録を読んだことがある。記録者は、村人が喜んでいたという。しかし、その記録者は民間信仰の専門家ではないので、額面通りには受け取れない。
まぁ日本統治時代には、民間信仰をポジティブに研究する学問自体が稀だったわけで……と、さらに逸れてしまったぜ。
やたら濃い説明になってしまった。ここからは反省して、淡白に書いていこう。
写真は、三川殿を正面から。屋根の上にいろいろ乗っているのが台湾らしい。
本当は足元のほうも撮りたかったが、何せ人だらけで無理。
三川殿の内部から、拝殿、正殿と続く。正面奥に五府千歳が祀られる。
写真で分かるように、ちょうど進香団がやって来ており、乩童の姿も見える。さすがにこの場に割り込んで撮影はできないので、正殿の写真はこれだけ。
ちなみに『台湾廟宇図鑑』によれば、このように建物が縦に密に並ぶのは、王爺廟の特徴とされるらしい。途中の庭がないため、内部が暗くなる。それがまぁ、陰廟としての演出になるという説明のようだ。
拝殿の八角形石柱。草花の浮き彫りが見える。『台湾廟宇図鑑』によれば、こうした石柱は台湾全土でも珍しいという。
八角柱の後ろの柱をよく見ると、大正癸亥年とある。大正12年(1923)にあたる。
『台湾廟宇図鑑』によれば、この1923年に、代天府の大規模な造営が始まったという。福建省の泉州から人を招いて設計を行い、現在のような廟宇とした。造営は1937年にまで及び、王爺廟の典型といわれる形になった。
ちなみに、台北の龍山寺に関わった工匠たちを呼んだらしい。三川殿の造りとか、あちこち似ているのも当然ということになる。
1923年は、台湾の総督が文民総督になっている頃だ。軍人総督期には、民間信仰を破壊する発想しかなかったが、この頃には政策転換がなされている。まぁその辺も、ここでは流しておく。
拝殿の天井。八角形の蜘蛛の巣を張ったような形は、藻井と呼ぶ。廟ではよくあるものだが、よくできたものだ。
その三へ続く。いつも通り、順調に長引いてるなぁ。
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