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2009/05/09

祀典武廟

祀典武廟
 関羽といえば、「レッド・クリフ」では妙に迫力がなかった。所詮、彼らには関帝廟の像の真似は出来ても、その「大きさ」は現せないのか。
 まぁそんなことはどうでもいい武廟。第一級古蹟である。なぜここに一級古蹟が三つもかたまっているかといえば、当然ここが台湾の中心に他ならなかったためであろう(もっとも、一級古蹟の認定はかなり政治的で、決して文化的価値だけで決まっているわけではない)。

※再訪時の記事も合わせて御覧あれ。すごいのも混じってるけど。
文衡聖帝の聖誕を祝う祀典武廟 (「大丈夫」扁額はこちら)
祀典武廟はこうやって祝うでござるの巻 (オッサン向け)
祀典武廟(武廟街尊義堂)馬使爺 (自称赤兎馬)

祀典武廟
 三川門。
 この廟は1690年に建てられた。ただし、それ以前からここには関帝が祀られていたらしい。大天后宮の東隣に位置するここは、寧靖王府の関帝庁だった。当時は現在とは逆で、北側に入口があったという。
 清の雍正5年(1727)に、祀典に列せられた。つまり、国家が祭祀を行う廟に格上げされたのである。

祀典武廟
 大関帝廟の別称もある祀典武廟。まぁ別称は、近くにもう一つ武廟があるからだが、こちらは清が官祭を行ったある意味での「正統」廟である。日本は道を広げる邪魔になると移築を迫ったらしいが、地元の尽力で残ったとの話。
 都市が成長する上で、思い切った基盤整備は必要なことだろう。が、それを行う人間が文化に理解が乏しい場合は不幸である。まぁここではどうにか残ったのだから、秀吉が京都でやった破壊よりはマシか。

祀典武廟
 関帝像はガッシリしているのが特徴だ。

 なお、武廟とは本来は文廟に対する呼称であって、イコール関帝廟ではない。実は創建時のここにも、関羽の他にもう一人の武人が祀られていたらしい。岳飛である。
 岳飛といえば、宋の武将として満州族の金と戦った、漢民族の英雄である。つまり、満州族の清にとっては祀られては困る存在だ。なので清はここを関帝廟として整備する一方で、もう一人の神を抹殺してしまった。
 まぁ『三國志演義』での関羽の活躍にしても、明という国のもとで漢民族意識の高揚を狙った意味合いがあろう。清にとっては関羽も望ましい存在ではないわけだ。もしかして、武神から商売の神へと変貌したのにも、政治的な背景が隠れているのだろうか(不勉強につき分かりませんなー)。

祀典武廟
 奥の池には亀がいた。器用に泳いでいたので撮影。

祀典武廟
 関羽の左右に従う者は、白い関平と黒い周倉。『三國志演義』を読んでない相方は、この二人を知らなかった。仕方ないので二人が関羽に従った経緯を教えてやったぞ。
 まぁしかし、関羽の物語はどれも関帝の神話そのものなんだよな。関平は実子じゃねーの?、とか周倉なんて人物いたのか?、なんて疑問はヤボだ。もちろん関索も。

祀典武廟
 ここにも観音庁がある。
 観音像は蒋元枢が造らせたもの。開基天后宮などと同時期の像ということになる。

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