最近の近代文学研究では、植民地文学と呼ばれるような分野が注目を集めている。
従軍作家の小説や随筆なんてのは、研究対象とするに足らないとか、そもそもそんなものに注目すべきではないという考え方もある。とはいえ、何も調べなければ思考停止、そして行き着くところは全肯定か全否定のどちらかでしかない。
台湾人が日本語で書いた作品も、そういう意味で研究される価値はあろう。『日本統治期台湾文学集成』として公刊されたものを読むと、いろいろ考えさせられる。
なお台湾に関しては、日本統治時期を安易に肯定しようというムードがあったりする。しかし、derorenは少なくともそういう立場ではない。台湾の寺廟を巡り、民間信仰に触れる以上、植民地時代はどう言い訳しようと暗黒時代なのだ。
もっとも、暗黒時代を招いた理由が、日本の神仏信仰の強制にすべて帰着するかといえば、そうでもない。
東アジアの近代は、キリスト教を基盤とする価値観の襲来によって、従来の信仰が「土俗」と蔑まれる時代である。現に日本統治以前から、台湾にはカトリックもプロテスタントも入り込んでいる。当然、そこでは民間信仰を「未開」習俗として排除しようとしただろう。
また、台湾に滞在した日本人学者の書いたものをポツポツ読んでいると、そこに人類学的偏見がみえる。文化人類学以前の人類学は、西洋のキリスト教的世界をもっとも進歩的なものとみなした上で、「未開」を調査していた。そうした偏見は、台湾の「近代化」が信仰破壊を伴う理論的根拠であったはずだ(台湾総督府が民俗調査に力を入れたことは周知の通り)。それは支配者が誰であっても、1900年前後の台湾が通過せざるを得なかったイニシエーションだろう。
ただ、日本でなくともやっただろうが、日本がやったのだ。その点を肯定する必要はない。
さて、枕が長くなってしまった。陳蓬源「古都臺南の床しさ」は、『日本統治期台湾文学集成』16巻に収められた随筆集『雨窓墨滴』の一部である。
陳蓬源(陳逢源)は台南生まれで、日本統治時代の台湾では台湾文化協会のメンバーとして、議会設置運動などを行った人物である。随筆中でも、台北の大稲埕と台南の景色を比べたりしている(大稲埕は港町文化講座のあった、台湾文化協会の拠点)。
陳氏は国民党政権下では実業家に転身して、成功をおさめている。台湾文化協会メンバーなんて、国民党にとっては抹殺すべき敵でしかないわけだが、その中で生き抜いたのだから相当にしたたかな人間だったのだろう。
したたかという点では、「古都臺南の床しさ」が日本人という立場で書かれているあたりも、なかなかである。出版が昭和17年(1942)という戦時下なので、そのように書くしかないのだろうが、日本人の立場をとりつつ、日本人とは異なる視点である。
この随筆は「古都」とあるように、台南の古さを讃える内容だ。そしてそこでは赤嵌楼を中心に、孔子廟、開元寺、関帝廟(祀典武廟)、天后宮(祀典大天后宮)、呉園などが挙げられる。これは現代台湾における評価と一致していて、当時の植民地政府の認識とは明らかに異なっている(台南神社を無視していることからも明らかだ)。
そもそも「古都」とは、オランダ、鄭氏政権、清代、日本時代という時の流れであることを、陳氏は明確に語っている。それは「台湾」の歴史であり、日本や国民党が教える歴史ではない。
生まれ故郷を懐かしむ随筆でありつつ、読者にしっかり台湾人意識を植え付ける。只者ではない巧妙な仕掛けである。
文字ばっかりなので讃えられる景色を載せておこう。赤嵌楼は、台湾伝統の赤瓦建築という点でも評価されている。
呉園は都会の中心にありながら、文人墨客の楽しむ景色である。いやまぁ、今となっては高層ビルに囲まれてガッカリな景色だけどね。
まぁそんな深読みはさておき、陳氏の主張する台南の魅力は、大きく二つある。一つは伝統ある景色が現代に伝えられていること。もう一つは、緑が多いことだ。
台南の緑については、日本統治後の緑化政策にも肯定的である。とりわけ鳳凰木(ホウオウボク)の並木の美しさを讃えており、もっと詩的な名前はないかと調べて馬纓花と名づけている(随筆中には彼の詩が紹介される)。
日本統治時期を全否定も全肯定もせず、台南が通過した歴史の一部として捉える視点は、もっと評価されてもいいのではなかろうか。
ともあれ、1940年代にようやくこのレベルに達した台湾人意識は、国民党政権下で再び全否定され、再び陽の目を見るのが1980年代である。
非常にのどかな随筆を読んでも、苦難の日々を考えざるを得ない。その辺を知って旅をすれば、よりディープな台南を辿れるのではないかと思う。台南観光のブログだから、あえてこのようにしめておこう。
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