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2010/10/08
小西門円環と良皇宮
小西門円環は、府城の小西門があった場所である(正確には円環よりやや南、右奥の木の辺り)。
かつての台南(台湾府城)は、大陸の都市と同様に、城壁と門によって囲まれていた。中国式の城なので、街全体を囲っていたわけだ。
そこで日本統治時代になると、真っ先に行われたことが城壁と門の排除であった(台南と台北で実施)。出入りもままならない状況では、近代都市としての将来が開けないためなのは言うまでもないが、さらなる動乱を防ぐ意味もあっただろう(大阪冬の陣の後に堀を埋めたようなもの)。
台湾府城の城壁は、法華寺の近くと成功大学に残る程度。そして日本軍が撤退した時点で、台南には大南門、大東門、小西門、兌悦門が残されていた。
そうして生き残った小西門は、国民党時代に道路拡張に伴って壊され、成功大学キャンパス内に移築された。観光客の我々にとって、それは移築の一言で済む話。しかし、『小西門 台南前世今生』の阿俊にとっては、あくまで一つの喪失と感じられたようだ。
ちなみに『小西門 台南前世今生』には、阿俊が後に成功大学まで出掛けて、移築後の小西門を見たエピソードも記されている。活気ある街にあった門の形はそのままだが、樹木に囲まれている姿を見て、阿俊は最早これが思い出の小西門ではないことを悟る。そんな話を読むと、移築すれば守られるってわけでもないよなぁ、と思う。
たとえば京都でも、二条駅の駅舎が移築されている。derorenは二条駅の近くに住んだことはないので、旧駅舎の利用回数なんて知れているが、それでも違和感はある。
身近にあったランドマークが余所に遷るというのは、特に子どもにとっては衝撃なんだろうね。
ついでに余談を一つ。
台湾の資料を読んでいたら、安平古堡を「日本式みたいな城」と書いてる例を見つけたことがある。もちろん安平古堡はオランダの城であって、日本は何も関与していない。ただ、城が城主と兵のみを囲っていて、市街が城壁の外側にある点で、オランダと日本は似ているというわけだ。その発想はなかったなぁ、と驚いた記憶がある。
まぁ日本でも堺とか寺内町なんかは堀で囲んでいた例もあるし、必要があればやったんじゃないか?、とも思う。
兵士じゃない人が城内に沢山いるというのは、いざ戦う際にいろいろ不都合が生じそうだけどねぇ。
さて、現在の円環は小吃店などが並ぶわけだが、そのなかに下大道良皇宮という宮もある。
実は良皇宮は2009年春にも訪れていて、その時の記事も存在する。
ただし、その時は廟の内部に立ち入っていない。そもそも2009年にここに来た理由は、阿堂鹹粥で朝食を食うためだったわけで……。
今回は良皇宮をきちんと拝拝したゾ。
前回の記事でもいちおう触れているが、ここは興済宮と並ぶ保生大帝の宮だ。
建物自体は特に古くはなさそうだ。
内陣の写真。ここでは左右に保生大帝という文字が見えるが、主祭神にしては寂しすぎる景色だ。
というか、写真の中央の神は保生大帝ではなく、観音である。紛らわしい表示だ。もっとも、観光目的で訪れる人など皆無だろうし、誰も困らないか。
保生大帝はこちら。
これでも興済宮に比べるとやや地味かも。例の籤は、意識していなかったので見当らなかった。
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