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2012/06/21
米街廣安宮
何度も通り過ぎているが、初めて拝んでみようと思った広安宮。
赤嵌楼からすぐ、写真でも分かるように小吃街で有名な場所だ。
この辺の旧称は米街という。清の時代に、その名の通り米を扱う店が並んでいたことに由来する。ただし、日本統治時代に新たな都市計画道路、つまり民族路がつくられたので、清代の面影はたぶん残っていないと思われる。
民族路の建設では、広安宮も移転を余儀なくされたが、他にも被害に遭った宮は多かったようで、特に共善堂はいったん廃絶したらしい(共善堂については過去の記事を参照)。
その代わりと言ってはなんだが、広安宮の廟前広場は、屋台エリアに変貌した。現在も隣に存在する、石精臼点心城(写真の左側)の原型である。
ちなみに、以前に紹介した石精臼蚵仔煎や阿憨鹹粥は、ここからビッグになって巣立ったわけだ。
ともあれ、現在の広安宮はとても簡素だ。廟というより物置だ。小吃店の繁盛が還元されていないのだろうか、とも思うが、そもそも現在の点心城本体はイマイチ流行ってる印象がない(ちなみに、赤嵌楼前の度小月もここの一員である)。
まぁともかく、ここの主祭神は池府千歳。例によって、正面で邪魔をする線香立ての奥に鎮座している。
子連れでちょろっと覗こうとした我々だが、親切にもパンフレットをいただいたので、それを元に説明すると、池府千歳は池名然という明代の官僚で、民に慕われていた。やがて福建の漳州に転任したが、疫病を除くために自らの身を犠牲にして、顔が真っ黒になって死ぬ。その姿を見た玉皇上帝が、彼を疫病を払う神とした。
で、鄭成功に従った人々がこの神を奉じて台湾に渡ったとある。
ちなみに、米街に廟を建てたのは1723年とされ、鄭氏政権下ではない。そもそもこの辺には、寧靖王府の鼓楼があったと伝承されているらしい。まぁその辺はパンフを読んでもよく分からないので、そのままにしておく。
パンフによれば、池府千歳の左奥の像は、池府夫人像のようだ。パンフでは白い顔なのだが、煤けて真っ黒になっている。
同じくパンフの「広安宮伝奇」によれば、女性の崇拝が厚いという。「できる男の背後にはできる女がいる」的な話らしい。日本ではなかなかない発想だ。
王爺廟につき、もちろん謝将軍。ベロ出し正統派だ。
唐突に思い出したが、ベロといえばスピッツ「テレビ」だね。なんだかいろいろ危ういネタだね。
范将軍。
中央の池府千歳らも含め、王爺廟は異常死者の集団だ。文字にしてみると、恐ろしい廟である。
虎爺もどこか垢抜けない。さらに五営将軍はもっとアレだったので、こちらは載せないでおく。
なんにせよ、死に様を神像に表現するという発想はすごいと、今さらのように思うわけである。
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