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2010/10/29
永華宮(二) 永遠の少年神、廣澤尊王
ギラギラとした瞳のヤツは誰だ!
数え十六歳にして旅立ったという廣澤尊王だ。
こちらは比較的新しい神像。
テカった肌がなんともいえない質感だ。まぁそれ以上は言うまい。
永華宮は廣澤尊王を祀る宮として乾隆15年(1750)に創建された。もちろん、祭神と廟名に直接の関係はない。泉州南安人であったという廣澤尊王を、泉州同安人の陳永華が奉じて台湾に渡ったという故事に基づいている。
陳永華といえば、金傭『鹿鼎記』では天地会の陳近南であったわけだが、ともかく鄭成功の台湾攻略に従った武将だ。ご存じの通り、鄭成功は台南奪取後すぐに亡くなったので、台湾の統治は鄭経と陳永華によって行われた。
陳永華の施策としては、屯田や教育などが知られる。屯田は、いきなり明軍の残党が大挙渡ってきたのだから、食糧確保と治安維持のために必須であったはずだ。また教育については、現在の台南孔子廟の設置に関わっている。すぐに清軍に攻め込めない以上、大陸と同レベルの都市環境を作って長期的戦略を練るしかないのだ。
そうした政策を遂行した陳永華は、当代の諸葛孔明と讃えられた。しかし病気のため永暦34年(1680)に48歳で永眠。その三年後に鄭氏政権は崩壊した。
清の統治に変わっても、陳永華の人気は高かったが、反乱軍の軍師を祀ることはできなかった。そこで廣澤尊王を祀る廟を建て、そこに永華の名を冠することにした。台湾統治の実質的な指導者だった陳永華は、清朝末期になっても、鄭成功のように再評価というわけにはいかなかった。
日本統治になって、ようやく陽の目を見るかと思いきや、また災難が降りかかる。例によって日本の植民地政府は、台湾の民間信仰の価値を認めなかった。永華宮は元々は府前路の台湾銀行支店の位置にあったのだが、その銀行支店を建てるために、廟を破壊したのだ。
やむなく現在地に移ったのは1925年。その後に何度か改修を重ねて現在に至る。現在もあくまで廣澤尊王の廟であり、陳永華その人は祀られていない(台南市内で陳永華を祀る廟としては、陳徳聚堂がある)。
主祭壇には、沢山の廣澤尊王が並ぶ。懼れをなすか、目を輝かすかは人それぞれだが、いろいろな表情があって興味深いぞ。
この写真に主要な像がすべて写っている。
左奥の、長門裕之が目を見開いたような顔の像が最も古い廣澤尊王といわれる。軟身(木製で、手足が動く像)で、陳永華が台湾攻略の際に伴ったという伝承のある像だ。大鎮と称されている。
その手前の像(この記事の冒頭の写真の像だ)は二鎮で、大鎮についで古い。
右のややうつむき加減の像が三鎮。これは日本統治時代に、新たに廣澤尊王が現れた際に造られたという。高砂町(民権路。振發茶行の辺り)の医者の家で飼われていた八哥(ハッカチョウ)に神霊が憑き、この像に遷されたそうな。
もう一つ気になるのが、その三鎮の前にある小さな像。明らかに廣澤尊王ではないこの像は、もしかしたら妙応仙妃像ではないかと思われる。妙応仙妃とは廣澤尊王の夫人である。
※ただし妙応仙妃は蔭媽という異名があるので、このように表に鎮座しているかは微妙。若くして死んだ男の子の死後の妻という意味で、東嶽殿の打城法事を思い出させる存在だ。
主祭壇を左側から。大鎮と二鎮、そして位置的にはたぶん四鎮と思われる像などが見える。なお、祭神の説明は、永華宮で配られている立派なパンフを参照した。陳永華の説明もそれを利用したが、同時に『台南歴史深度旅遊』も参照している。
孔子廟からは歩いて五分程度の距離にあるが、あまり日本人観光客は来ない永華宮。我々が訪問した時に、たまたま拝拝に来ていた中年女性(夫婦で来ていた)に、非常に熱心に説明を受けた。我々が日本人と分かると、英語を使ってまで永華宮の価値を教えてくれた。
残念ながら我々は、英語のヒアリング能力もアテにならないので、彼女の教えてくれた詳細が理解出来たわけではない。ただ、『台南歴史深度旅遊』の陳永華の説明ページ(重いので、必要箇所だけコピーで持ち歩いていた)を見せた時に、「そうそう!」という顔で指差してくれたことが、強く印象に残っている。
台湾の歴史を知る貴重な場所として、そして永遠の少年神を観賞しつつ平穏な日々を願う廟宇として、時間があればぜひ訪れてほしい。
永華宮:台南市府前路一段196巷20號(リンク先は地図)
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