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2010/09/18
祀典大天后宮(六) 寧靖王の観音信仰
大天后宮の観音殿。その(三)でも触れたように、ここは寧靖王の監軍府があった場所である。
そしてここは、観音殿となるべき場所ではなかった。
その(三)を書いた時点では確信がもてなかったが、寧靖王は死後の王府を、あくまで観音堂にして欲しかったようだ。ところが清軍のトップとして王府にやって来た施琅は、観音像を正殿ではなく、脇のここに移してしまったという。
そもそも施琅がやって来て、すぐに媽祖祭祀が始まったわけでもないようだ。『台南歴史深度旅遊』を読み直すと、彼がすぐに行ったのは寧靖王府を廃したことだけで、当初は媽祖を祀るつもりもなかったらしい。
そして、萬福庵前照牆の記事で触れた、施琅に対する阮夫人の不満も、どうやらこの点にあったようだ。いずれにせよ台南の人々の不満を感じとった施琅は、媽祖を祀ることで住民の機嫌をとると同時に、寧靖王府の記憶を消し去ろうとしたのだろう。
例によって岩窟の観音像は、乾隆42年(1777)の作。台湾においてはそれでも非常に古い像で、蒋元枢(台湾知府)の命で造られたという。ちなみに、同時に三体造られた観音像は、ここと祀典武廟、開基天后宮に祀られたそうな。
観音像の左右には、花瓶に隠れてしまっているが男女の像がある。どうにか見える右側の男の像は(写真をクリックして拡大してね)、金童という。反対側は玉女。どちらも善・美・真を象徴する顔らしい。
……『台湾歴史深度旅遊』がその順なので善・美・真と並べてみたけど、日本だったら真・善・美の順序になりそうだ。こういうのも文化の違いなんでしょうな。
現在は観音殿の前に、この三宝殿がある。
両脇に仁王像のように立つのは、向かって右が韋駄で、左は何と関帝だという。祀典武廟の主祭神を門神にしてしまっていいのだろうか(ちなみに、祀典武廟の前身も寧靖王府の関帝廟なので、こことは兄弟分)。
奥の釈迦三尊は、ウルトラマンのカラータイマーみたいに卍が描かれた、ちょっとガッカリする像だ。手前の三体も、同じく釈迦三尊ではないかと思われる。彌勒もありがちなビジュアルで座っている。
ここは清代になってから、官庁として整備された場所だ。「祀典」、つまり清朝の国家祭祀の対象となったこの宮には、祭礼のたびに官吏がやって来る。その官吏が使用する場所が官庁である。従って、清朝が滅亡した後は本来の役割を失っていた。
そこで1970年代になって、改修して三宝殿としたらしい。
別に釈迦三尊を祀ることに異論を唱える理由もないが、ちょっと場所がおかしいのも事実。なぜなら、ここは隣が拝殿という位置関係なので、観音殿(と正殿)に比べて一段低い。つまり、観音が釈尊を前座にする形になっているわけだ。
如来が菩薩に見下ろされるってどうなのよ、ねぇ。
手前には金の卵を産む鶏がいた。ものすごく非台湾的な像だ。まぁ最近整備された場所だから、どこかの国から寄贈されていても不思議ではない。
今回、萬福庵を巡ったことで、今までよく理解出来なかった部分がだいぶ見えてきた気がする。やはり台南を知るには、ある程度トータルに巡らないといけないようだ。
台湾に渡った時点で成人していた寧靖王は、鄭成功・鄭経とも微妙なバランスを保たざるを得なかっただろう。そういう面も見えてくれば、もっと史跡巡りは面白くなるのではないかと思う。
観光客としてそこまで調べるのは、さすがにきついけどね……。
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