南門路から五妃街へ。道は判りやすいけれど、何せ暑い。いい加減歩き続けるのも限界だ。
そんななかでようやく辿り着いた五妃廟。これがまた、日陰のないだだっ広い公園の中央にぽつんとあった。実に気力を減退させる景色だ。
陳文達『臺灣縣志』(1720 臺灣文獻叢刊第一〇三種)には、次のようにある。
五妃墓
五妃者、明寧靖王妃也。曰袁氏、王氏、曰秀姑、曰梅姐、曰荷姐。
癸亥六月二十二日、靖海將軍侯施琅既克澎湖、王語諸妃曰「我之死期至矣。汝輩聽自主之。」妃曰「王生倶生、王死倶死。」
遂結繯齊縊堂上。王親自殯殮、葬仁和里。越二十六日、王死。
永暦37年(1683)、施琅率いる清軍は台湾への総攻撃を開始、澎湖諸島が陥落した。鄭氏政権の監軍であった寧靖王は、そこで自分の死期を悟り、五人の妃や侍女に伝えた。すると妃たちは王と生死をともにすることを望み、王に先んじて首を吊る。寧靖王は五人の遺体を葬ると、自らも死を選んだとある。
なお、この自害の地は大天后宮である。そちらの記事にも触れているので、あわせて読んでくだされ。
一級古蹟に指定されているわりには、恐ろしくシンプルで小さな建物。これは後側が見えるように写したものだが、まさしくお墓である。ちょっと気味が悪い。
正直、ここと億載金城の一級古蹟指定は、文化的価値とは別の理由だったのではないかと想像される。鄭成功もしくは寧靖王関係の古蹟は、国民党が鄭成功を利用する一環として指定されたのだろうし、億載金城は抗日施設である。というか、億載金城なんてほとんど役にも立ってないじゃないか。
本来ならば開元寺(二級)、台湾府城隍廟(二級)、東嶽殿(三級)あたりがふさわしい。
※追記 現在は一級・二級が統合されて国定古蹟とされる。
内陣。
寧靖王は結局のところ、皇帝として即位はしなかったわけだ。他国にとっては、鄭氏が皇帝という認識だったようだし、寧靖王は結局のところは鄭氏政権のマスコットの域を出なかったんだろうなぁ、と思う。
それでも殺されるしかない辺りに、皇帝の国の残酷さを感じる。天命を受けて統治する者の国で、前王朝の関係者が生き残るのは難しい。
※追記
対外的にいえば、永暦という年号を使い続けているので、永暦帝(朱由榔)を奉じていることになる。但し永暦帝は、鄭成功の台湾攻略以前に殺害されている。
数少ない見所(?)は、石碑。五妃を顕彰する「五妃之碑」であるが、注目は裏側である。日本語で歌が刻んであった。たぶんこんな句。間違ってるかも知れないので訂正よろしく。
みをふかき 五妃のたまやは いろかへぬ をかへのまつと いやさかえなむ
門神たち。
隠れている一人はこちら。
あまりコメントのしようがない。要するに従者なのだろうし。
※2011.3 増補修正
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