玉皇上帝を祀る宮。画面の右側から参拝するが、左手にかなり奥行きがある。通常なら前後に並ぶところを、スペースの関係で右から左へ配置しているのかも知れない。
この宮は、鄭氏政権時代に誕生したと伝えられるために「開基」らしい。具体的には、玉皇太子廟、もしくは玉皇太子宮と称されていた廟を祖とするようだ。陳文達『臺灣縣志』(1720)には次のようにある。
玉皇太子廟、偽時建。康熙二十七年、總鎮楊文魁重修。
「偽」というのは鄭氏政権のこと。中国では、自分たちが認めない王朝は偽である。満州国が「偽満」と呼ばれるのは有名だ。
一方で謝金鑾・鄭兼才『續修臺灣縣志』(1807)は、次のように記す。
玉皇太子宮:在鎮北坊。偽時建、俗呼四舍廟。康熙二十七年、總鎮楊文魁修。
一在西定坊、曰上太子宮。一在士墼埕尾、曰下太子宮。一在長興里。倶偽時建。
鎮北坊とは現在の玉皇宮周辺であり、関連を感じさせる。ただしこの時点では四つの宮があり、士墼埕尾の宮は現在の昆沙宮と思われる。なお、昆沙宮の「太子」は哪吒太子(中壇元帥)である。
そもそも「玉皇太子宮」とは「玉皇」と「太子」の宮だろう。哪吒太子(中壇元帥)は童乩が祀る神であり、そうした宗教者が集う空間だったと想像できる。いずれにせよ、現在と同じ場所にあったのかは読み取れないが。
ここは拝拝も盛んである。佐々木宏幹氏が取り上げてるんですな。
こちらは右手の宮内。
左側の内部。画面右端にちらっと写っている女性は、祈祷を受けていた。祈祷してる人は写っていない。あんまり写せる雰囲気でもない。観光客のせいで祈祷が失敗しては大変だ。
ここは、前日の台北も含めて最もリアルに信仰を感じられる場所だった。あくまで、ここまでの時点での話だが。
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