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2010/10/09

昆沙宮(下太子)

昆沙宮
 小西門の南南西の路地に、昆沙宮という宮がある。
 下太子と呼ばれているが、これはこの付近の地名でもあった。『小西門 台南前世今生』には「下太子」として一章がおさめられており、そこでは日本人が台南を去る前後の記憶が語られてる。民国50年(1961)の昆沙宮の写真も載っているよ。

昆沙宮
 下太子の「太子」は、哪吒太子、つまり中壇元帥を指す。
 その中壇元帥は毘沙門天の息子とされている。

 この宮の創建は鄭氏時代に遡る。『重修臺灣縣志』などによれば、当時の台南には玉皇太子宮という宮がまず存在し、次いで下太子宮が創建されたという。玉皇太子宮は台南の北にあったとされ、開基玉皇宮の前身と唱えている。一方で開元寺に近い辺りに、現在も同名の宮がある。台南の府城は、南北に軍の拠点があったわけで、二つの宮はそれらに対応する神なのではなかろうか。
 元々、下太子宮は土墼埕と呼ばれる地にあった。そこは清の時代には軍装局が置かれた場所だが、清に代わった日本は、軍装局の地を刑務所として整備した。そのために昆沙宮は移転を余儀なくされ、現在地にやって来たという。
 その後、震災で倒壊して再建されたものの、雨漏りがひどくボロボロになったため、民国76年(1987)に現在の廟宇を建てたと、これは碑文に書かれてあった。

昆沙宮
 門前に立てられている旗。

昆沙宮の中壇元帥
 中壇元帥の姿は、特に余所と変わるわけではない。

昆沙宮の中壇元帥
 太子は中央で目をつぶっているが、左にギョロ目で睨みつけている神がいるぞ。

 さて、沿革の説明にもあったように、この宮は刑務所の移転に伴ってここに遷っている。従って、かつての刑務所までは目と鼻の先ということになる。
 あえて巡りたい場所でもないけれど、結果としてはそれなりにじっくり巡ってしまった。その辺の話は次の記事にて。

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