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2010/08/07

北港義民廟(後編) 終わらない奇瑞の地

北港義民廟
 「忠烈垂範」の文字は陳水扁によるもの。彼の評価が最低に堕ちている現在では、どうにも微妙な扁額だが、評価の方は今後どう変わるか分からないからコメントは差し控える。

 義民廟は大衆廟と同様に、無名の死者を祀る廟である。それらの死者はたいてい、歴史上の特定の事件に関わっている。
 北港義民廟の死者は、1786年(乾隆51年)に勃発し、台湾を揺るがした林爽文らの事件によるもの。天地会を組織して清朝に反旗を翻した林爽文らは、彰化などを陥落させ、嘉義(当時は諸羅)を攻めたが、そこは防御が堅く落とせなかった。なので嘉義をいったん諦め、台南(府城)攻撃に転じることとなった。

 笨港街(北港)に反乱軍が押し寄せたのは、翌年夏であった。
 笨港街の人々は街を守るために百八人の義民団を結成して抗戦。また一頭の勇猛な犬もともに戦ったという。
 しかし、撃退を祝って宴会が開かれた5月30日の夜、まず見張り役の犬が毒殺され、義民団が酔いつぶれた深夜に襲撃を受けた。その結果、多くの人々が殺害されてしまった。

北港義民廟
 主祭神の義民公とは、そうして殺害された死者である。

北港義民廟
 ともに戦った犬もまた、神として祀られている。

北港義民廟
 「旌義」の扁額は清朝の頃の古いもの。現在ここは三級古蹟に指定されている。

 1788年に林爽文らが滅んだ後、清の皇帝は、抵抗した街に聖なる名前を与えている。諸羅が嘉義となったのは有名だが、笨港街(北港)には「旌義(義をおさめる)」という名が与えられた。そこで北港朝天宮の中に旌義亭という社を設けて、亡くなった人々を祀ることにしたという。
 しかし義民廟の歴史は、一度の戦乱にとどまらなかった。

 1861年(咸豊11)、戴潮春らが起こした反乱にも、笨港街は巻き込まれている。
 戴潮春の軍は漳州出身者が多く、北港に近い新港郷(新南港)の厳弁も、漳州出身者として呼応した。そもそも笨港街とは北港と新南港を含む地域名であったが、ここで分裂してしまったわけだ(日本統治時代には、北港は泉州出身者がほとんどで、漳州出身者は全くいないという調査結果が出ている)。
 義民廟のパンフレットによれば、塩水(台南県)を攻めようとした厳弁らの前に義民廟の霊が現れ、厳弁らが懼れて退却したなんて話も載っているが、ともかく今度の戦いでは36名が亡くなった(厳弁は政府軍によって処刑)。

北港義民廟
 戦死者は旌義亭に祀られたが、1863年(同治2)に「義民廟」と書かれた香炉が造られ、その名で呼ばれるようになる。そして1891年頃に朝天宮とは別の場所、つまり現在地に廟宇を造ることとなった。
 写真は義民塚。廟宇の外側にコンクリートの新しいものも造られたが、廟の内部にもこうして存在する。

北港義民廟
 一頭の犬は義犬将軍として祀られる。

北港義民廟
 義民廟の守護神であるこのお犬様は、つい最近も大変な活躍をしたらしい。廟内には、その内容を伝える新聞記事が貼り出してあった。
 読んでもどうもよく分からないのだが(derorenの読解力の問題)、本来義民廟の土地であった廟宇の隣地に、長年にわたり不法占拠状態で税金も払わずに住んでる人がいたようだ。で、立ち退きに応じなかったその一家が、突然応じたばかりか、訴訟費用の負担も受け入れた。それは一家の人間の夢に義犬将軍が現れ、諭したからだ……という話。
 こんな伝説が誕生したのは、どうやら2007年らしい。今さらながら、台湾の信仰が(良い意味でも悪い意味でも)しっかり生き続けていることを感じる。

 なお、この記事を書くにあたっては、義民廟のパンフレットのほかに、台北市立教育大学の論文集(2009)より、林柔辰「福佬人之義民公信仰:以北港義民廟為例」を参考とした。同論文はダウンロード出来るので、興味のある人はこちらから(PDFなので注意)

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