2010/03/14

祀典大天后宮(二) 寧靖王府の俤(前編)

祀典大天后宮
 台南の中心部には五つの一級古蹟(文化資産保存法に基づき1992~1997年に指定されたもの)が存在する。安平の二つを加えると、全20箇所のうち7つを台南で占めていたわけだ。
 中でも赤嵌楼、祀典武廟、祀典大天后宮の三つは、ほとんど隣り合っているというほど近接している。なので日本の観光ツアーのコースに入ることもあるようだ。

 ただ、オランダと鄭成功ゆかりの赤嵌楼、日本人でもだいたい知ってる関帝廟の祀典武廟に対して、祀典大天后宮は分かりにくい。見た目も、写真の通り地味である。
 しかし大天后宮は、スルメのようにじわじわと興味がわいてくる地である。どれだけ知識を得られるかが、その辺の鍵となろう。過去二度の台南旅行の総仕上げとして、ちょっと気合いを入れて書いてみたい。

※一級・二級・三級という等級制度は、現在の法律では国定・その他(市定・県定)の二種になった模様(日本語版wikipediaの記述は正確でない)。二級=省定だったのだが、台湾省の凍結もあって廃止、二級古蹟だった分は一級と統合されて国定古蹟とされているようだ。

祀典大天后宮
 上の写真を地味と言ったが、実は沢山の見所がある。
 たとえば石段。よく見ると彫刻が施されているのが分かるだろう。泉州から船で運んだ石に、わざわざこんな細工まで施したのは、「祀典」故である。
 ちなみに「祀典」とは、ここの祭礼が清の官祭であったことを意味する。つまり台湾を代表する廟宇として、国家が祭祀を行ったという格式の高さを、さまざまな装飾で示しているわけだ。

祀典大天后宮
 門の左右に立つ石の柱は龍柱。龍柱そのものはけっこう色々な廟宇にあるけれど、ここの龍柱はかなり立派なものだ。内部にもあるので、後で紹介するぞ。
 開け放たれた扉の左右にある長方形の木彫は、夔龍拱磐。二柱の夔龍(きりゅう)と五隻のコウモリがデザインされており、コウモリの数は五福を招く意味がある。

※コウモリの数え方は諸説あるが、それなりの本では「隻」が多いので、ここでもあえて「匹」や「羽」は使わなかった。「隻」は二つということだから、羽が二つの蝶なども同様に数えるようだ。

祀典大天后宮の平台紀略碑
 門をくぐって中へ。大きな石碑が壁に埋め込まれている。
 これは平台紀略碑といい、康煕22年(1683)に建立された。台湾でも最古に属する碑である。内容はまぁ名前の通りで、清軍がどうやって鄭氏政権を滅ぼしたかを記したものだ。
 この石碑は、施琅が作らせたらしい。施琅はかつて鄭成功に従い、後に清軍に降服して台湾攻略の大将となり、征服後の台湾統治政策にも多大な影響を与えた人物である。「清軍によって台湾は解放された」という、内容の是非はここで問うても仕方ない、確かなのは、施琅がここの主を死に至らせた者であり、死後にわざわざこんな石碑を置かせたということだ。

祀典大天后宮の螭首
 拝殿と正殿の間には大きな段差がある。この奥にもいくつかの段差があるが、それらはかつてここが海辺だった頃の、台南の地形の名残りなのだという(三川門の前は海だった)。
 で、なんか顔が見えるわけだ。

祀典大天后宮の螭首
 これも龍の一種である螭首(ちしゅ)。孔子廟にもついていた顔だ。
 天后廟にはあまりそぐわないこの首こそが、ここの前身であった寧靖王宮の痕跡ではないかという説がある。

 この記事のタイトルでも触れたように、この天后宮の地は、明の寧靖王の住んでいた場所である。鄭成功に連れられて台南に渡った寧靖王(朱術桂)は、即位はしていないので明の皇帝というわけではないものの、鄭氏政権の存立の根拠であった。
 諸外国はあくまで鄭経らを王と呼んでいたようだし、寧靖王は結局のところは傀儡に過ぎない。しかし台湾の歴史上、非常に重要な人物であったことに変わりはない。

祀典大天后宮の龍柱
 正殿に立つ龍柱。大天后宮には写真のような説明板があるのだが、そこにはここが寧靖王宮だった……と書いてある。
 実際には道光年間(1820-50)の作らしいので、あまり関係ないはず。何でも寧靖王宮に結び付けるきらいがあるのは、伝説の地にありがちなことである。

祀典大天后宮の正殿
 そんなわけで正殿の御本尊。
 この位置が寧靖王の正堂だったという話は、どこまで本当なのだろうという疑問はある。ただし、既に紹介したようにここは段差が激しいので、再建するにせよ三川門、拝殿、正殿それぞれの位置関係は動かないのかも知れない。

 大天后宮はまだ奥に続いているので、(三)ではそちらを紹介する(同時に書き進めている)。なお、以前の紹介記事(一)はこちら。写真はあまり重複していないので、併せて御覧くだされ。

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