Pages
▼
2009/05/09
台湾府城隍廟(一) 七爺・八爺と城隍神
城隍廟は夜に行く場所じゃないと、帰国後に知った我々は少々愚かである。いや、ここは夜に行ってないけれど、もっと行ってはいけない場所に行ってしまったぞ。他で拝拝してるから、どうにか相殺してもらいたいぞ。
※この記事は一部勉強不足な内容が含まれるので、「○城隍廟とは」などを追加した。なお再訪時の記事も併せて読んでいただきたい。
・台湾府城隍廟(二) 府城三大名扁と門神画
・台湾府城隍廟(三) さわやか城隍廟
・台湾府城隍廟(四) 城隍爺と扁額
○城隍廟とは
城隍は城壁とほぼ同義。従って城隍廟とは、城の守護神を祀るものである。中国的な城は必ず街ごと城壁で囲まれるため、外敵をはね返す頼もしい城壁を人格化したと考えれば分かりやすい。
ただし、実際の城隍爺(神)は司法神であるとされる。特に死後の人間の行き先を決めるという、まさしく閻魔大王的な職能をもつ。これは城の内部と外部の接点にある神が、生と死の接点の神にスライドしたものだろう。
共同体の境界が生死の境を象徴する例は、そう珍しくない。しかし城隍爺は中国的環境ならではの存在である。
城隍爺は実在の人物であったとされ、生前の行ないを評価され、死後に玉皇上帝などに任命されるという。それは玉皇上帝を頂点とする神々の官僚機構の一翼となっている。
また、ここで取り上げる「台湾府」城隍廟をはじめとして、城隍廟は現世の行政区画に従って建てられている。それは城郭都市に必須の施設なのであり、その城郭都市を統治する者の官僚機構、すなわち皇帝の国(明や清、民国)の秩序の末端なのである。
そもそも、玉皇上帝を頂点とする(いわゆる)道教的官僚機構と、現世の皇帝の官僚機構は一体のものだ(皇帝は神々に位を与えることができる)。城隍廟は単なる宗教施設ではない。文字通り「天命」により地上世界を統治する皇帝は、神々をも配下に従えていたのだ。
一日のうちに縣と府をまわる我々である。府の方が多少は明るい。大通りに面しているからだろう。
台湾府城隍廟の起源は、鄭氏政権時代に遡るという。台湾で初の城郭都市「承天府」を造る際に、城の四方に守護神を置いた。鎮北坊に武廟、寧南坊に文廟(孔子廟)、そして東安坊にこの廟を建てたらしい(西は西定坊だが祭神はよく分からん)。1669年(南明の永暦23年)建立当時は承天府城隍廟と呼ばれた。台湾最古の城隍廟である。
清代になり、承天府は台湾府と改称されたため、現在の名になった。何度かにわたり改修されているが、中でも1777年(乾隆42年)に知府(府知事)蒋元枢の手で大規模な改築が行われた。
そうして広い境内を保っていたが、日本統治時代に前面が削られた(道路拡幅のため)。その後、民国時代にもさらに削られてしまい、現在のように道路にいきなり面することになった。
※『台南歴史深度旅遊』『台湾的城隍廟』などによる。
ここの特徴といえば算盤だ。算盤で人の生涯がプラスかマイナスか計算するという恐ろしい呪具なのである。そういえば日本でも『宇治拾遺物語』に、算木で人を操る話があったな。算数や数学と違って、算術は人を殺せるらしいぞ。
左手の収蔵庫にコッソリ展示されている巨大ソロバン。まぁ「旅名人」のガイドブックにも紹介されているから、読者なら見逃さないよね。
そして選挙演説男その1の范将軍である。
その2は謝将軍。のっぽの謝将軍の像は、どこもインパクトのある姿だ。まるで鏡に映ったかのような小さい方も、別の謝将軍なので念のため(写真は拡大するよ)。小さい方も小さい方ですごいぞ。
○謝将軍(七爺)と范将軍(八爺)
董芳苑『台湾人的神明』や黄柏芸『台湾的城隍廟』などによれば、范無救さんと謝必安さんは兄弟の契を結ぶほどの間柄で、差役(税の督促やら警察的役割などを行う)だったそうな。
そんな仕事で出掛けたある日、大雨で川が増水したので二人は橋の下で雨宿りをする。しかし雨はやまないので、謝さんは范さんをその場に残して雨具を調達に出た。しかし調達に出た途端に雨足が強まり、一気に増水した川は、際立って背の低い范さんを押し流した。そして雨具を持った謝さんがその場に戻った時には、既に溺死したあとだった。
友人を失ったのっぽの謝さんは、そばの大木(橋の欄干との説も)に首をくくって自殺した。兄弟の信義を守った謝さんと、友を信じて待ち続けた范さんの信義を認めた閻王は、二人を冥界の門番(差役)の位置におくことにした。なので人が死ぬと真っ先に二神の審判を受けるのだ、といった話。
二人の異常死者の霊魂を救済する物語といえば言えるが、歴史的事象と捉えてもしょうがない。「無救」と「必安」はそれぞれ二人の(現在の)職務を象徴する名だろう。「謝」が友を救えなかった意味での姓ならば、「范」は規範や法に通じる字ということにもなる(この辺は適当に憶測しているだけなので読み流してもらいたい)。
謝将軍のベロ出しは首吊り自殺者の死に顔だなんて説明もある。同じく范将軍の口が裂けたように幅広なのは、水死体を表わしていると、『台湾人的神明』にある。ここでリアルさを追究するのが何とも不思議だ。
○城隍爺※上と重複するが、過去の記述として残す
城隍廟の主祭神には定まった神格がないと説明されることもあるようだ。人の住む場所としての城を外敵から守る「城隍」を神格化した存在が、「城隍爺」などと呼ばれるのだ、と解釈するのが自然に思われる。
そして「城隍爺」は、城の外部と内部を隔てる門番というイメージだから、善と悪を分ける者、あるいは生と死を分ける者となる。あまりにシンプルな解釈なので、実際には例外も多かろうが、こう理解すると分かりやすい。
清代の台南の城域を地図で見た場合、例えば法華寺はぎりぎり城内にあるが、すぐ近くの五妃廟は場外である。城中を生者の、城外を死者の世界とみる観念も、そこに介在していよう。
台南の「城隍爺」は、人々が台南市に住む資格を問う、と言い換えることも可能だろうか。実際、府城隍廟は裁判所の機能を果たしていたというわけだし。
0 件のコメント:
コメントを投稿