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2009/10/15
開基開山宮
裕成水果の近くにある開基開山宮。なので入口だけ眺めて、まず我々はマンゴーかき氷を食った。正直、食欲を抑えてまで拝もうという気力はなかった。
なお、手前の清掃車はわざと写してある。
この日(2009.8.13)、台南市内は未だ断水中。そして水に浸かった家財などを回収する清掃車が走っていた。もう台南市内はほぼ正常化していて、清掃車はこの後は近隣の郷鎮へと救援に出掛けることになったようだ。
食べ終わって改めて訪問。小さな廟だが、文衡聖帝の聖誕(ママ)を祝う花が飾られている。ここは開基武廟からほど近い場所だし、関係があるのだろうか。
本尊は保生大帝であるという。
そういえば、未だに保生宮の記事を書いてないなぁ。
保生大帝の廟は、慈濟宮とか開山宮、呉真人廟などの呼び名があった模様。開山宮という廟も、乾隆年間には存在したようだ。その辺が「開基」の所以なのだろう。そうした古記の開山宮がここだという確証があるのかは不明。
ちなみに興済宮は、観音亭(大観音亭)のそばにあると古記が記している。古くから現在地にあったのは確実である。
門神画。ずっとこのブログにおつき合いいただいてる人は、そろそろ飽きただろうか。
なお連横(連雅堂)の『雅堂文集』には「開山宮記」と題された文章が残されている。それによれば、ここは隋の虎賁中郎将だった陳稜を祀る宮であり、保生大帝(呉真人)説は間違いだという。
隋の時代に陳稜は兵を出して「琉球」を攻めた。その「琉球」とは台湾のことで、従って漢人として初めて台湾を征服した人物こそ陳稜なのだと、雅堂氏は主張する。要するに「開山」の意味をはっきりさせようとしているのだ。
連雅堂が主張するように、台湾に関わったことのない保生大帝(呉真人)を「開山」宮に祀るのはおかしい。ただ、陳稜説の是非はderorenには判断できない。
なお雅堂氏も最後に触れているが、「開山宮」ではなく「開仙宮」とする資料もある。日本統治時代初期(雅堂氏が存命の頃だ)の台南地図にも「開仙宮街」と見える。「開山宮」と記したものの方が古いので、変化して「開仙」になったのかも知れないが、その辺も不明。
※2011.8増補
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